自分もいじめ加害者の父になるかもしれないという感覚の欠落。

子供の父親になってから、今回の川崎市のいじめ殺人のような事件を見ると、本当に心が痛む。殺された子供の両親はどういう心境なんだろうか。自分の子供たちが同じようなことになったら、自分はどういう心境になるのか。想像するだけで辛い。いや、想像することを拒むというか、想像ができない。そして、自分の子供たちがいじめられたら、親としてどうしたら良いか、また実際にいじめられたらたらどう対応したら良いかを考えて悶々とする。

でも、ふと「自分の子供たちが加害者になったらどうしよう」という視点が完全に欠落していることに気付いた。まさか、自分の子供たちが、人をいじめ殺人者になるような人間になるとは考えられない。だが、実際に今回の加害者たちの親はどんな親だったのか、全く我々は知らない。自分の子供に全く愛情を注がず、暴力を振るう傍若無人な人間を想像しがちだが、実はごく一般的な市民だったのかも知れない。

自分の子供たちがいじめられることを防ぐこと、いじめられていたら何とか助けること。親として当然の責務である。けれど、その先に、誰しもがいじめる側になる可能性があり、自分の子供たちもその例外ではない、自分の子供たちをいじめる側にならないように育てなければならない。そういう視点が全く欠落していることに愕然とした。それは自分の人生における大きなテーマであり課題になってくるのだろう。