成長病が日本をダメにする。

最近注目を集めてる、全くビジネスプランがないのに大学を中退して起業しようという人。別にただの馬鹿だし、せいぜい自分の子供らに「人殺しと自分殺しと連帯保証人になることの3つだけはやめとけよ」と言い聞かせようと思っていることに、ブロガーになることをやめさせることを4つめに付け加えようかと考えるくらいで、特に自分には関係ない話。

 

でも、なんか気になってるのは、そのエントリに「このままでは成長ができない」とひたすら言っていたこと。この人に関わらず、いわゆる意識高い系の人って、なんかあれば「成長すること」が人生の最重要テーゼになってるみたいだけど、じゃあ成長して何になるの?っていうのが一切分からない。てか、そもそも成長って何?意識低い人間には背が伸びることくらいしか思いつかない。

 

仕事も長くやってれば、新人の頃よりはうまく回せるようになるけど、それって慣れてスキルがついたってだけの話で。親になって世の中の見方が変わったけど、それも成長というより、ただ変わっただけだし。自分が意識低いから成長の意味が理解できないのかも知れないけど、成長して何を実現したいかが一切聞こえてこないのは不思議で仕方ない。

 

大学を中退してブロガーになるって馬鹿は、成長して何をしたいんだろう。成長したなぁって自己満足したいんだろうか。それとも社会にものすごいイノベーションを巻き起こしたいってことなんだろうか。そんなことより、子供つくって、その子供らがまた次の世代を育むように教育することは、目立たないけど、すごく価値のあることだと思うんだけど。

 

というか、根本的にすごいイノベーションで本当に人は幸せになったんだろうか。そんなことより、まずは自分の身の回りを固めることのほうがよっぽど社会貢献してるわけで、サラリーマンやって子煩悩なやつは成長しないなんて言い回る馬鹿が世の中に跋扈するほうが、よっぽど社会には害悪に思える。

 

野球って、本当に人気なくなったんだなって思う。

「トリプルスリー」が流行語大賞に選ばれたけど、一方の意見に引っ張られやすいネットはともかく、テレビでも「知らない」とか「聞いたことない」という人が過半数で、あー野球って本当にみんなが知ってるスポーツではなくて、単にファンの多いスポーツのひとつになったんだなぁとつくづく思った。前からそうだったのかもしれないけど、改めて実感した。

大阪に住んでると、阪神タイガースの中継はだいたい地上波でやっているので、そこまで野球人気の低迷に気がつかなかったのかも知れない。そういえば、巨人戦は日本テレビの地上波放送は少なくなったように思うし、巨人がビジターゲームの日本テレビ以外のゴールデンタイムの地上波放送って一切なくなった。昔は「野球が延びたせいで、ビデオ録画ができてなかった!野球ムカつく」なんてことをよく聞いたけど、日本テレビで中継しても21:00まえでぴったり終わるので、そういうことを聞かなくなった。テレビ朝日で松沼弟が球種の判別をバックネット裏でしていたのが懐かしい。

国民から注文されるプロスポーツはもうないのだ。野球でも、サッカーでも、最近ではラグビーでも、一過性のものとしては日本代表の試合が注目を浴びることはあっても、リーグ戦という括りでは、一切注目されない。そういう意味では、メジャーが不在でマイナーが割拠している状況で、野球はその中でもちょっと頭一つ抜け出て人気があるってだけなんだろう。これからも野球は見ていくし、こういう状況は寂しいけれど、野球の人気にあぐらをかいて、新規需要の掘り起こしを図らなかった球界全体(ファンも含め)の責任なんだから、仕方ない。

自分もいじめ加害者の父になるかもしれないという感覚の欠落。

子供の父親になってから、今回の川崎市のいじめ殺人のような事件を見ると、本当に心が痛む。殺された子供の両親はどういう心境なんだろうか。自分の子供たちが同じようなことになったら、自分はどういう心境になるのか。想像するだけで辛い。いや、想像することを拒むというか、想像ができない。そして、自分の子供たちがいじめられたら、親としてどうしたら良いか、また実際にいじめられたらたらどう対応したら良いかを考えて悶々とする。

でも、ふと「自分の子供たちが加害者になったらどうしよう」という視点が完全に欠落していることに気付いた。まさか、自分の子供たちが、人をいじめ殺人者になるような人間になるとは考えられない。だが、実際に今回の加害者たちの親はどんな親だったのか、全く我々は知らない。自分の子供に全く愛情を注がず、暴力を振るう傍若無人な人間を想像しがちだが、実はごく一般的な市民だったのかも知れない。

自分の子供たちがいじめられることを防ぐこと、いじめられていたら何とか助けること。親として当然の責務である。けれど、その先に、誰しもがいじめる側になる可能性があり、自分の子供たちもその例外ではない、自分の子供たちをいじめる側にならないように育てなければならない。そういう視点が全く欠落していることに愕然とした。それは自分の人生における大きなテーマであり課題になってくるのだろう。

電車の中でスポーツ新聞読みたい。

電車の中でスポーツ新聞読んでるおっさんが羨ましい。全く意識高い系な意味でなくて、本気でそう思う。いつから、「できるサラリーマンは日経新聞か高度な実用書を読むべきで、電車の中でスポーツ新聞読むなんて愚の極み」なんて思うようになったんだろうか。

毎晩18時に家帰って、毎日野球見て、贔屓のチームの応援に一喜一憂している人たちが羨ましい。たとえ給料安くてもよっぽど今の自分より幸せに思える。で、翌日はスポーツ新聞見て、下衆な情報にほくそ笑んで、ってそれでいいよ。ピケティとか結局自分には関係ないもん。こんな平凡な生活が一番贅沢な暮らしに思えるなんて、ずいぶん色んなもんをこじらせてしまった。

競馬で感じる季節感

今年はなんかまだ年末の気がしないなぁと思ったら、有馬記念がまだ来週の28日だからかもと思った。毎年有馬記念は25日前後で、有馬記念が終わって年賀状書いたり、有馬記念で破れた夢を大井の東京大賞典に託して返り討ちにあうというのが、清く正しい年末の在り方だったりして。確かに年末の忙しさはあるけど、やっぱり有馬記念が終わって、競馬を締めないと年末の気分にならない。

これは競馬をやる人間は全員がそうだと思うのだけど、競馬の大レースで季節感を感じる。まだ年齢表記が旧式だったころは、桜花賞で春を感じ、ダービーで夏の始まりを覚え、宝塚で梅雨明け。天皇賞秋で秋を感じ、ジャパンカップで夕暮れの早さを覚え、有馬記念で年の瀬を感じ、有馬記念でやられてもう博打はやらんといいながら、舌の根も乾かぬうちにすぐ金杯で乾杯と言う。もう今は新しい番組表にも慣れてきたから、フェブラリーステークスがあれば、春はもうすぐと感じるし、スプリンターズステークスがくると、夏も終わりかと寂しくなる。清少納言が現代にいたら、競馬をみていとをかしと言っていたに違いない。


思えば競馬ほど、きっちりと日程が毎年毎年同じな野外スポーツは少ない気がする。相撲も年中やってるけど、屋内だから日の高さを感じることはできないし、野球も秋にはやってない。ラグビーも冬は感じられるけど、夏場はない。年間通して開催されて、しかも要所で耳目を集める大きなイベントがあるのは、競馬だけなんじゃないかな。やっぱり競馬は楽しい。だから負けてもやめられない。